アジア史における第二次世界大戦
第二次世界大戦中、中東や北アフリカを含む西アジア領域は連合国と枢軸国の戦略的要衝となりました。スエズ運河やペルシア湾の石油資源を巡る攻防が繰り広げられたほか、アングロ・イラク戦争や英ソによるイラク・イランへの軍事介入が実施されました。これらの戦いは地域政情を激変させ、戦後の英仏植民地支配の崩壊と民族独立運動の加速、さらには超大国が介入する現代中東の地政学的な基盤を形成することとなりました。
第二次世界大戦中、中東や北アフリカを含む西アジア領域は連合国と枢軸国の戦略的要衝となりました。スエズ運河やペルシア湾の石油資源を巡る攻防が繰り広げられたほか、アングロ・イラク戦争や英ソによるイラク・イランへの軍事介入が実施されました。これらの戦いは地域政情を激変させ、戦後の英仏植民地支配の崩壊と民族独立運動の加速、さらには超大国が介入する現代中東の地政学的な基盤を形成することとなりました。
第一次世界大戦中、中東を中心とするアジア戦線ではオスマン帝国が同盟国側で参戦し、ガリポリやガザ、メソポタミアなどで激戦が繰り広げられました。イギリスを中心とする連合国はサイクス・ピコ協定やアラブ反乱の誘発を通じてオスマン帝国の勢力を解体させました。この戦いの結果、同帝国は崩壊へ向かい、戦後のパレスチナやシリア、イラクの委任統治領成立と現代中東の国境線形成に決定的影響を与えました。
第一次・第二次世界大戦期、パレスチナではイギリスの委任統治とユダヤ人の大規模移住に対し、アラブ系住民による民族自決と独立を求める運動が激化させた。1917年のバルフォア宣言以降、ユダヤ人の国家建設の動きとアラブ側の抵抗が対立し、1920年代のナビー・ムーサー暴動や1929年の嘆きの壁事件を経て、1936年には大規模なパレスチナ・アラブ大反乱へ発展した。イギリスによる規制と二つの民族運動の衝突は解決せず、第二次世界大戦後の国連パレスチナ分割分解議決と1948年のパレスチナ戦争、イスラエル独立に伴うナクバ(大災厄)へとつながる現代中東紛争の根源を形作った。
オスマン帝国およびイギリス委任統治期のパレスチナで指導的役割を果たしたアラブ系政治家。エルサレム市長を務めた後、パレスチナ・アラブ会議の執行委員会主席として、委任統治政府やバルフォア宣言に対する平和的・外交的な抗議運動を率いた。ユダヤ人入植の増大とイギリスの政策に反対し、アラブ人の政治的権利と自決権を主張した。1933年のヤッファでの抗議デモの際にイギリス警察の暴行を受けて負傷し、その翌年に死去した。彼の外交路線と指導力は、初期パレスチナ・アラブ民族運動の統一を維持する上で決定的な役割を果たした。
化学者でありシオニズム運動の世界的指導者。第一次世界大戦中、イギリスの軍需生産に貢献する合成アセトン製造法を開発し、英政界との強いパイプを築いた。外交手腕を発揮して1917年のバルフォア宣言引き出しに中心的役割を果たし、世界シオニスト機構およびユダヤ事務局の総裁としてパレスチナへのユダヤ人移住と建国基盤の整備を推進した。第二次世界大戦後も国際的なロビー活動を展開して国連での分割決議採択に寄与し、1949年に初代イスラエル大統領に就任して近代ユダヤ国家の立役者となった。
右派シオニズム(修正シオニズム)の創始者で、軍人・著述家。第一次世界大戦中にイギリス軍傘下のユダヤ軍団創設に尽力し、自力救済と武力による防衛を主張した。「鉄の壁」論を提唱してアラブ側との妥協を排除した強硬な国家建設を訴え、地下軍事組織イルグン(エツェル)の思想的支柱となった。主流派のベン=グリオンらの漸進主義的な外交路線を徹底的に批判し、シオニスト機構から離脱して新シオニスト機構を設立するなど、後のイスラエル右派政治の原流となる確固たる対立軸を築いた。
ゼエヴ・ジャボチンスキーのロシア名であり同一人物。第一次世界大戦期、ユダヤ人の自衛兵力育成を目指してヨセフ・トルンペルドールらとともにイギリス軍内の「ユダヤ軍団」結成運動を展開し、ガリポリの戦いなどに自ら参加した。戦後は委任統治下パレスチナでの自衛組織ハガナーの初期基盤形成に関わったが、英当局から扇動罪で逮捕された。修正主義運動を率いてユダヤ人の即時無制限移住と両岸での国家建設を要求し続け、第二次世界大戦初期にアメリカで客死するまで武力防衛と思想的闘争を貫いた。
委任統治期パレスチナの有力政治家でエルサレム市長。名門ナシャシービー家を率い、反英・抗争路線を強めるフサイニー家と対立して穏健派の国防党を結成した。イギリス当局との交渉や行政参画を通じてアラブ側の権益を守る実利的な現実主義路線をとった。1936年のアラブ大反乱では強硬派と対立し、反乱鎮圧後は過激派からの暗殺の脅威に晒された。戦後はヨルダン王国に接近し、1948年のパレスチナ分割後はヨルダン領となった西岸地区の閣僚や総督などを務め、アラブ内部の派閥対立を象徴した。
シリア出身のイスラム法学者・反植民地主義革命家。フランス占領下のシリアで抗仏闘争に参加した後、ハイファへ逃れて民衆運動を開始した。農民や労働者層を中心に秘密結社「黒い手」組織を組織し、イギリス委任統治政府およびシオニスト入植者に対する武力聖戦(ジハード)を呼びかけた。1935年にイギリス部隊との戦闘で戦死したが、彼の殉教はパレスチナ民衆に強大な影響を与え、1936年の大反乱の直接的な導火線となった。現在のハマース下部軍事部門の名称にもその名を留める。
建国の父と称される初代イスラエル首相。ポーランドから移住後、労働シオニズムの指導者としてハガナー(自衛組織)の強化やヒスタドルート(労働総同盟)の発展に尽力した。第二次世界大戦ではイギリス軍への協力を掲げつつ、戦後は国連での分割決議を経て1948年5月14日にイスラエル独立宣言を読み上げた。パレスチナ戦争を指揮して国防軍を再編・統一し、国家の生存を確定させた。移民の受入推進と国家基盤の建設を強力に推し進め、現代イスラエルの政治・軍事体制の骨格を作り上げた。
イスラエルの政治家で、同国の初代外務大臣および第2代首相を務めた。ユダヤ事務局の外交部門責任者として英政府や国連との交渉にあたり、建国に向けた国際的な承認の確保や国連パレスチナ分割案の採択に尽力した。自衛組織ハガナーと英軍の連携を統括し、第二次世界大戦時にはイギリス軍内へのユダヤ旅団結成を推進した。建国後は硬軟織り交ぜた緻密な外交を展開し、ベン=グリオンらの強硬派路線に対して対話と国際協調を重んじる外交スタイルを貫き、初期イスラエルの外交基盤を確立した。
委任統治期パレスチナのアラブ最高指導者。1921年にエルサレムの大ムフティー(法解釈官)および最高イスラム評議会主席に就任し、宗教・政治の両面から反シオニズム運動を指揮した。1936年のパレスチナ・アラブ大反乱では最高アラブ委員会の主席として反英・反ユダヤ闘争を指導したが、イギリスから追放された。第二次世界大戦中は枢軸国に接近してドイツへ渡り、ヒトラーと会談してアラブ独立の支援を求めた。彼の強硬姿勢は抗争を激化させ、パレスチナ問題の複雑化に大きな影響を与えた。
後に第4代イスラエル首相となる女性政治家。キーウに生まれアメリカで育った後、パレスチナへ移住して労働運動やユダヤ事務局で頭角を現した。第二次世界大戦期から戦後にかけて、アメリカのユダヤ人社会を巡回して莫大な建国・軍事資金を集めることに成功した。1948年の独立直前には危険を冒してアラブのヨルダン国王アブドゥッラー1世と秘密会談を行い、戦争回避を交渉した。建国後は初代駐ソ連大使や労働相を歴任し、建国初期の社会基盤整備と外交活動を精力的に支えた。
パレスチナ・アラブの軍事指導者で、独立闘争の英雄。ムーサー・アル=フサイニーの息子。1936年の大反乱で軍事組織「聖戦軍」を率いてイギリス軍やユダヤ組織と戦闘を繰り広げ、負傷と流亡を重ねた。1947年の国連分割決議後、パレスチナ戦争(第一次中東戦争)が勃発すると再び聖戦軍を組織してエルサレム包囲戦を指揮した。1948年4月、戦略的要衝であるアル=カスタルの戦いで激戦の末に戦死し、アラブ側の士気に致命的な打撃を与えたが、その勇戦は民族の象徴として称えられている。
二つの世界大戦下、西アジアは英仏など列強の利害が錯綜する激動の地となりました。第一次大戦ではオスマン帝国が参戦し、アラビアのロレンスとアラブ反乱、英仏によるサイクス・ピコ協定など秘密外交が展開。大戦後に帝国は解体され、ケマル・アタテュルクがトルコ共和国を建国しました。第二次大戦中も石油資源や交通の要衝を巡り枢軸国と連合国が火花を散らし、これらの動乱は現代の中東問題や国家形成の決定的な基盤となりました。